その他
丹城面南沙里の崔氏古宅は村で最も大きな家で、朝鮮時代の士大夫たちの住宅からも垣間見れるごとく、儒教思想の影響を受けて男女の空間分割、特に女性の空間について独立性を持つよう、優れた配置技法が強調された建築物だ。
アンチェ(母屋)とイクランチェ(奉公人たちの部屋)、サランチェ(居間)などがアンチェ(母屋)を中心にロ字型に配置されており、サランチェ(居間)の左右には内庭に通じる中門が2ヶ所にある。右の中門を開けて入ると、アンチェ(母屋)が一目で目に入るように開放されている反面、西の門を開けて入るとイクランチェ(奉公人たちの部屋)とアンチェ(母屋)が直接見えないよう、ㄱ字に塀を囲んで視覚を塞ぐ技法が使われている。
この崔氏古宅は、アンチェ(母屋)が正面6間、側面3間で、前後退間のある五梁構造の入母屋造りだ。建物が高く部材がしっかりしており、2重扉の彫刻装飾からは、繊細で美しい士大夫の家の格式が感じられる。サランチェ(居間)は正面5間、側面3間あり、前後退間のある五梁構造の入母屋造りで、アンチェ(母屋)と同じく大棟の下に間が重なった形式になっている。
崔氏古宅へは、村の前の大きな道路から石塀に沿って入っていくと、左に曲がった所に大きな柿の木が一本見える。そのすぐ前の大きな門に入れば‘慶尚南道文化財資料 第117号’という案内板があり、横には手入れの行き届いた古い梅の木が目印のように立っている。高さ7.0m、木の直径5.5m、根元の直径27.6mの白梅である。
文化財管理台帳に記録されている‘上樑文’によれば、この家の上梁時期は 庚申年(1920年)7月で、約80年前に建築されたものであるが、ここに植えられている梅の木は少なくとも、20年以上になる木を移して植えたものと思われ、3月の終わりになると、眩しいほどあざやかな梅の花が枝一杯に咲きほこる。
慶尚南道山清郡丹城面南沙村は約500年余り前に形成された村で、朝鮮時代の伝統的な様式を備えた古宅が数件あり、古い村に相応しく、ムラサキツリバナ(紫吊花)の古い木が何本も立っている。この村には古い梅の木が多いことでも有名だ。この村の古宅の中の1つに、晋陽河氏の家、32代続いてきた‘汾陽古家’がる。この家は 元正公(義を行い民を喜ばせる‘元’、正義により他人を従わせる‘正’という意味) 河楫(1303~1380)が住んでいた家だ。 彼は21歳の1324年に進士を経て、文科の甲科に3等級で合格し、慶州府尹(地方官吏)と門下贊成事を経て、輸忠佐理功臣重大匡輔国崇祿大夫晋川府院君に昇格した。
この家は、東学乱の時に焼失し、現在は彼の31代後孫である河澈によって新しく建てらた。‘汾陽古家’と書かれた額がかけてあり、無き日の名門家の痕跡を残している。興宣大院君の‘元正舊廬’の自筆の額縁が保管されているサランパン(居間)の前には610年の歳月をじっと見守ってきた梅の木が、見栄えのいい松の木と一緒に並んでいる。この梅の木は高麗元正公、河楫が植えたもので、その切り株からは古い梅の木としての風格が感じられる。3月の末にはうすピンク色の花が咲く。
元正梅の前には小さな‘梅詩碑’があり、碑には梅の詩が刻まれていて、元正公の梅を愛する心が深くしみこんでいる。
この家の後ろには、朝鮮王朝世宗王の時、領議政(国務総理)をしていた河演が自ら植えたという600余歳の柿の木もある。
晋陽河氏の大同譜(第1巻)によれば、1377年以降に元正公は松岳に家を建て‘松軒’と名づけており、“早くに梅の木を一本植えた”と書かれている。彼の孫が植えた柿の木が580年になることから、現在ある梅の木は樹齢610余年を超えていると思われる。
山清の南沙里には昔から多くの古宅があったが、長い歳月が過ぎる間に管理保存が疎かで無くなったものもある。その中でも現在までよく保存されている家があり、その一つが鄭氏古宅だ。
鄭氏古宅の建物も崔氏古宅と同じ形式であるが、ここには‘泗陽精舍’という独立した離れ座敷がある。くし目模様の窓格子一つ一つから、昔の建築文化のすばらしさと古色蒼然な美しさが十分に感じられる。母屋の後ろには“善鳴堂”という独立した小さな建物があり、左の塀側に古い梅の木がある。
高さ6.0m、幅は東西に5.8m、根元直径が24.8mの約100歳になる紅梅である。 山清郡の文化財管理台帳の記録によれば、この家の上梁(棟上げ)は庚戌年(1910年)に施され、約90年経ったことになるが、ここに植えられた梅は十分に育った木を移し植えたものと思われる。
慶尚南道山清郡丹城面雲里、智里山の力強い山並みを辿って下りてきた所にある、玉女峰の下から南に位置した断俗寺跡には、東西の三層石塔と礎石が無造作に立ち並んでおり、そこに古い梅の木が一本立っている。この木が 政堂梅である。
仁斎・姜希顔(1419~1464)の《養花小錄》を見ると、“我が先祖通政公が少年時代に智里山の断俗寺で書を学んだ時に、自ら梅の木を庭の前に植えて詩を一遍詠んだ”、と書かれている。ここで仁斎が言う先祖とは朝鮮末期の文臣である通亭・姜淮伯(1357~1402)のことで、禑王2年(1376)に文科に合格し、官位がだんだん上がって政堂文学(中書省と門下省の従二品の官位)兼、大司憲に至った。恭譲王4年(1392)に 鄭夢周が殺害された後、晋陽に配流となったが、朝鮮建国後の太祖7年(1398)に東北面の都巡問使となった。
彼は慶尚南道の山清出身で姜希顔の祖父となったが、少年時代に政堂梅を植えて詠んだという詩がある。
また、通亭集に記録されているもう一つの詩は、彼が46歳で生涯を遂げる前に、過去に自分か植えた政堂梅を訪ねて行って詠んだ詩で、読む者に感動を与える。
断俗寺の僧侶たちは、彼の才徳を称え、清く高邁な風采と風格をしのびながらも、その梅の木を見ると通政公に会っているような気がするとして、毎年、根を土で整えてやり、丹精込めて手入れをした。
それぞれの形に曲がった枝と、青いコケが木の幹を覆っている様子が《梅譜》でいうところの古梅に間違いなく、まさしく嶺南地方(慶尚道)の骨董品と言えるだろう。国事の用で嶺南地方に来る人々は誰もが、断俗寺を訪れてその梅の木を鑑賞し、先祖の詩韻に合わせて詩を書いては門の上に掛けていくようになったという。
こうして、断俗寺の僧侶たちは、この梅の木を大切に扱うようになり、通政公の子孫たちと嶺南地方に来る役人たちが政堂梅を訪ねるようになったのである。この梅の樹齢は通政公が少年時代に断俗寺で書を読む時に植えたと記録されていることから、彼がこの寺で学んだ時期を20歳以前の科挙試験の前と考えると、およそ1376年以前に植えられたと考えられ、樹齢は630年を超えているものと見られる。
現在、政堂梅は高さ8m、周囲1.5mの大きさで、根幹から4本の枝と幹が上へ横へと伸びている。花の色は白で、単弁花である。3月20日前後になると決まってツボミをほころばせ、さわやかな香りを放つ。
後孫たちはこの政堂梅を記念するため碑閣を造り、碑を立てた。梅閣は1915年に梅碑の建立とともに造られ、‘ 政堂梅閣’という4文字の懸板(文字板)が掛けられている。碑閣の中には梅閣の由縁を記録した‘政堂梅閣記’と通政公の梅花原韻の詩や後孫たちの詩がいくつも掛かっている。
現在この政堂梅は1982年11月10日をもって慶尚南道の道木(固有番号12~41号)として保護樹に指定されている。
智里山の天王峰の下、山清郡矢川面絲里にある山天斎の庭には、南冥曺植(1501~1572)先生が61歳であった明宗16年(1561)に自ら植えた梅の木がある。
山天斎は、先生が学問を磨き研究した所で、明宗16年(1561)に建てられ純祖18年(1818)に修復された。前面2間、横面2間の造りからなっている。
南冥先生は、嶺南の退渓李滉と双璧をなすほど湖南学派のリーダーであった。生涯官職につくことはなかったが、死後、司諫院と大司諫に続いて領議政(首相)に叙位された。
先生は1501年(連山7年)に慶尚道三嘉県で生まれ、官職についた父親に従ってソウルに引っ越したが、その後は 宜寧、金海、三嘉などの地に居住した。先生は61歳の年に山清の徳山に移住し、そこに書斎を造って山天斎と名づけた。
この‘山天’という堂号は《周易》大畜卦の“強健で篤実に修養し、内に徳を積み外に光を放って、日ごとにその徳を新しくする”という言葉の意味をとったもので、強健な気性と篤実な姿勢で世に出ることなく深く埋もれて心性を陶冶する正しい修養をすることが学者の道である、ということを明らかにしたのである。
先生は山天斎を建ててからその庭に梅の木を自ら植え、毎年美しい花を咲かせるこの梅の木をとても愛した。先生の詩からも、この梅の木に対する愛情をうかがい知ることができる。
山天斎の庭にあるこの南冥梅が、山天斎が建立された当時に植えられたとして、すでに440余年の年輪を経ていると考えられる。下から大きく3つに分かれた枝は、ねじれて上に伸びている。上の方の枝は一部枯れているが、新しい枝が細かく出ていて、比較的元気なほうだ。毎年3月末になると、うすピンク色の半八重の花がいっぱいに咲き、その香りがとても爽やかだ。不義に妥協せず、生涯官職にもつかないまま全くの隠遁の志士であった南冥のその清らかな精神が、南冥梅のかぐわしい香りの中に今も染み込んでいるようだ。
山天斎の庭園のはずれ、川の方の丘には南冥梅より後に植えたと思われる大小の梅の木がある。また、山天斎の外の庭には闊葉常緑樹で、美しく大きく伸びた白樫の木が何本も立っていて風情を添えている。
山清郡丹城面雲里の村周辺には政堂梅の影響なのか、田んぼの畦や野山の麓にも古い梅の木が自生している。
その中でも政堂梅がある所から左に約300mの所に2本の立派な白梅の木がある。田んぼの畦に立っている木は根元の直径が63㎝、樹齢約350年にもなり、もう一方は高さ5.5m、幅5.0mもあり、樹齢約150年程と思われる。さらに、雲里村の西にある頭流山の低い麓には、高さ3m、根元直径51cmの樹齢約150年になる木と、高さが6.0mあり枝がいくつにも分かれている樹齢約100余年の木があるが、どちらも野生の白梅で茂みの中に埋もれながらも野生の力強さをうかがわせている。