渓谷/遊園地
夏の暑さに疲れきった都市生活から離れ、澄んだ空気と美しい景色の中で涼しく快適に休息を寛ごうとするなら、江亭遊園地を訪ねてみよう。生草面於西里に位置する江亭は1992年に自然発生遊園地に指定された所で、智里山北部を水源にし、馬川を通って流れる臨川の水と徳裕山から南へ流れる濫渓と渭川が合わさってできた雷渓の水が合流した所である。澄んだ水と美しい景色で知られる江亭は自然発生遊園地として、夏は二つの源流から流れて作られた砂場で日光浴を楽しみ、冷たい川の水に体を沈めて暑さをしのごうと訪れる観光客が後を絶たない。
面積は3,130㎡あり、周りには美しい景色の胎峰山、見晴らしの良い葛田山、生草国際彫刻公園、生草古墳群、一級登山路である王山、筆峰山、德譲殿、仇衡王陵(仇衡王の石塚)などの観光名所がある。夏休みを利用して家族連れで観光を楽しんだり、山清の歴史と由来を訪ねて自然を学び、久しぶりに再会した友人たちとは冷たい川水で水遊びを楽しみ、また、恋人同士は忘れられない思い出作りのデートを楽しんでみてはどうだろう。
巨林渓谷は智里山10景の中の第4景で、ツツジで有名な細石坪田からはじまる巨林谷を本流に智里山の尾根上に位置している煙霞峰とチョッデ峰からはじまるトジャン谷、細石平原から三神峰に繋がる尾根上にあるハンボッ泉を水源とするジャッパジン谷などの支流が集まって大きな渓谷を成している。
渓谷の本流だけも60里余りに至る巨林渓谷はツツジが花を咲かせる春になると、登山客たちの足音で渓谷の水の流れる音が聞こえなくなるほど大勢の人々がやってくる。ここに来るには山清郡矢川面徳山から中山里方面に行ってゴクチョム村の三叉路から左に入れば良い。登山客らは村の裏山のようにのっぺりとした巨林渓谷よりは南部の尾根から登るジャッパジン谷やチョッデ峰から登るトジャン谷を好んで訪れる。‘転んだ谷’または‘前のめりの庭’と呼ばれる单部の尾根上の谷はその名の通り、山が転んだように、前のめりになったように緩やかな傾斜を見せている。しかし渓谷の秀麗さはどの谷間にも劣らない。
谷間が転んでその弾みにえぐられたような原始性が何とも言えないのだ。ただ、問題と言えば一般人たちのアクセスが容易ではないという点であるが、渓谷に行く場合、巨林村の切符売り場を過ぎてしばらく歩かなければならず、智異山登山路にも出ていないほど道が不明確なため、経験者に同行してもらうのが安全だ。
一方トジャン谷は臥龍瀑布(滝)まで登山路が明確で探しやすい。トジャン谷は巨林村切符売り場を過ぎてやや小さな庵の後ろに行くとある。渓谷に入って最初に出会うのがミルグムの滝だ。規模が雄大で壮厳なだけでなく、巨大な滝水が水しぶきを立てながら落ちてくる様子は見る者を圧倒する。また滝の上の竜沼も实際に竜が生きていたのではないかと思わせるほど広くて深く、周辺には数百人ほどが座ることのできる盤石が敷かれていて休息所としては最適の条件が備わった所だ。
渓谷の上にも上竜沼と臥龍瀑布(滝)などの美しい景色を見せてくれる所があるが、道が険しいので山登りではなくただ休息に来たのであれば、竜沼の周辺でゆっくりと時間を過ごす方が良いだろう。上竜沼に登ると、伝説的なパルチザンと呼ばれるイ・ヒョンサンの南部軍の指揮所と厚生病院の跡を見ることもできる。それほど、このトジャン谷が深くて人を寄せ付けないことを証明するかのように、晩秋、落ち葉が全て落ちてからは雑木の間に土掘り式の家と石垣の跡がはっきり見える。
バカンスシーズンではなくても都会の日常的な生活に疲れ、大自然の息遣いを聞きながら静かに休息をとりたいという人にとって、トジャン谷の静かさと美しさは人生の癒しとなるだろう。
だからと言って巨林渓谷の本流である巨林谷の景色がそれほど美しくないということではない。支流であるジャッパジン谷とトジャン谷の景観があまりに素晴らしく、智異山のどの谷と比べても見劣りしないため相対的に後列に回るのだ。巨林という名前のように古くから一抱えもある大木が谷を所狭しと埋めていて、活発に開発され、 日帝強占期には軍需用の名目で多くの巨木が次々と切られて行った。さらに解放後にも混乱期に乗じて猫も杓子も木を切り出し、一時は一面禿げ山となったが、現在は昔の姿を少しずつ取り戻してきている。
新羅時代の青年兵である 花郎(ファラン)たちの訓練場だったと伝えられる細石平原、智異山で初めて生活の伝説を残した乎也と連真(子宝を授かりたいという願い事が虎の意地悪で水の泡となり、二人は乎也峰とチョッテ峰の石になってしまった)の悲しみの場所である陰陽水の泉と細石のツツジ、そして細石、また小説家ムン・ステの作品『ツツジ祭』のように両班(ヤンバン、貴族)と農民の階級が崩れ、その隙を突いて台頭したイデオロギーの対立が細石のツツジの花の下で虚しく幕を閉じるように細石の野原に至る巨林渓谷は思索の谷と称するに値する。
孤雲・崔致遠が智異山に差し掛かり、そこにとどまったという程に渓谷の美しさが卓越している。
孤雲洞という地名も崔致遠の号から取った。智異山麓には玉川台、 文唱台、 洗耳岩、喚鶴台などの、孤雲と関わる地名に親筆とされる双磎寺真鑑禅師大空塔碑、双磎石門、広済癌門などの字が残っているが、彼の号を取った地名は孤雲洞が唯一だ。それだけ孤雲洞の景観が優れているということなのだろう。
孤雲が智異山の山の神になったという伝説のせいか、‘青鶴洞’という理想郷(そこに行けば戦もなく食べ物も豊富であり、農民と両班(ヤンバン、貴族)との分け隔てなしに長生きするという)を探し尋ねる人々は孤雲洞を見て、かの‘青鶴洞’と思ったそうだ。これと反対に智異山の裾野にある慶尚道と全羅道がそれだけ多くの戦乱に巻き込まれたということと、支配層の収奪がひどかったということを物語っていると言える。
孤雲洞渓谷は徳山から中山里方面に向かい、外公里の正覚寺の案内表示板を少し過ぎてソジ観光農園案内表示板に沿って行けばよい。中山里から流れる渓流を渡って反川村に入る前までは、こんな小さな谷間に広い野原と村があるのかと驚くほどである。これが孤雲洞渓谷の特徴で、船岩を過ぎて孤雲洞に上る道も入り口が狭く、谷より海抜800余m以上の所にある盆地に登ってみると以前、村落があった場所らしく広い。
孤雲洞渓谷の荘厳さは、ピリ谷から下る渓流と孤雲洞谷の本流が出会う船岩から感じることができる。渓谷の所々にはキャンプ場もあるほど夏は避暑客たちで賑わう。しかし急に夕立ちが降れば渓谷の水が急にあふれるため、半日以上のキャンプをする時は気を付けなければならない。また、渓谷には船岩をはじめ平たい大きな岩が多いので、秋にはカップルで来て岩に座り、渓谷に散りばめられた紅葉や、渓流を真っ赤に染めて流れる紅葉の姿を楽しむに相応しい場所だ。
まさにこのような景色ゆえに、登山客は反川村から孤雲洞までわずか5㎞に過ぎない距離にもかかわらず、山歩きには丸一日かかると言ったのだ。雲のような細かな水しぶきが立つということから名付けられた云汝瀑布(滝)を過ぎると、大きな平岩である船岩に出る。長さ20 m余り、幅10m余りの船岩に上がれば、谷間の下の風景が一望できる。船岩に立って、水晶のように清らかな水が岩々の間を穿ちながら休みなく流れる姿を見ると、まるで船が汽笛を鳴らしながら走っているようだ。船首にあたる所には舟岩台という文字が彫り込まれている。
孤雲洞にはまだ、智異山で採れるお茶を摘み取る山家と理想郷の世界を夢見ながら修道する人の住む家がある。たいてい登山をする人々は、孤雲洞渓谷から孤雲洞に登って山家でお茶を一杯飲み、渓谷の入り口にある船岩に繋がったピリ谷から山を下りる。ピリ谷はこじんまりとした雰囲気の谷で、まだ人の手が多く入っていない。
ピリ谷という地名も崔致遠と関連がある。崔致遠が孤雲洞にいる時、ここが笛を吹きながら歩く散歩道だったそうだ。
内源寺渓谷の風景は山紫水明そのものだ。春には谷間に沿って上ってくる春の気配が、寺から香る香りとともに世間を清く浄化するようであり、夏には濃い緑色と谷間に響くせせらぎの音が、暑さを遠くに退けるようであり、秋は夕焼けがなくてもたくさんの紅葉で空と渓流が赤く染まり、冬は純白の尾根の上で風鐘の音と木魚の音が森羅万象の本性を覚まそうとする。そして、その音は止まることがない。智異山の悲劇と淋しさ、広大さ、深さを同時に持っている谷が内源寺渓谷だ。
智異山の最後のパルチザンが内源寺渓谷で捕まっていること、渓谷に位置した庵が10余ヶ所にもなること、九谷山から国師峰を経てソリ峰、中峰から天王峰に至る山頂の真ん中に位置しながら、谷の両軸である内源谷と長堂谷の長さだけで100里余りもある。
山清郡三壮面大浦里から始まる内源寺渓谷は、内源寺前で内源谷と長堂谷に分かれる。分かれ道で内源谷と長堂谷のどちらに行っても良いが、ここが初めてなら長堂谷の方をまっすぐ進んで行くのがいいだろう。入り口の森もそうだが、長堂谷から下ってくる渓流の上の般若橋周辺の景色が他に比べようもなく素晴らしいからだ。般若橋に立つと、真夏でも鳥肌がたつような渓谷の冷気が感じられ、奇岩怪石の間をすべるように流れる渓流が見える。
内源寺は智異山の雄大さ、壮厳さに比べれば規模は小さいが、その姿は千年の歴史を誇る伽藍らしく堂々として見える。長年の風霜の中でも本来の姿をとどめた3層石塔のたおやかな容姿は、修行の中にある僧侶の姿のように神々しく見える。毘盧殿に安置されている毘盧遮那石仏は、慈悲深い表情で衆生済度が豊かであることを見せてくれる。韓国に仏教文化が花咲いた時期である8世紀の石塔と仏像の様式をここで見ることができる。
寺を一回りして竹林の方へ出れば、内源村へ行く道だ。長堂谷には村がない反面、内源谷には外内源と中内源の村がある。
内源村では柿と福笊(ポクチョリ、福を呼ぶ笊)が一年中作られ、矢川面と三壮面一帯の干し柿と福笊はこの地の特産物として有名だ。干し柿は内源村が高山地帯にある上、空気もきれいで糖分が多く無公害なため、人気が高い。福笊も智異山で採れる笹で作り、時間さえあればいくらでも収入を得ることができるため、この地の人々は秋から冬までは、干し柿と福笊を作るのが仕事となっている。しかし内源村には、こんな平和な風景だけがあったわけではなかった。智異山最後のパルチザンであると同時に、二人部隊として知られたイ・ホンイが射殺され、鄭順徳が片足に銃弾を受け生け捕りされた所が内源村だ。
内源村は智異山深くにあるだけに、この地が経験した痛みをどの地域にもまして感じている。そのせいか内源谷には寺が多い。谷が深く、痛みが大きかった内源谷の恨みをなぐさめるかのように、小さな庵が谷に沿って10個以上もある。内源谷には以前にも寺が多かった。安内源村の上の方にある谷を大寺谷、小寺谷と呼んでおり、内源寺にある毘盧遮那仏座像も内源谷の上にある国師峰付近から移して来たものである。内源谷は寺谷というわけだ。
内源寺渓谷の一つの軸を成す長堂谷は、山の愛好家の間で智異山の最後の秘境と言われている。中山里と大源寺の方の登山路がよく開発され、人々の足が遠のいて智異山の原始性が保存されているという理由からだ。そのため、長堂谷は行楽客たちが容易くは近付けない。内源寺前から慶尚大学演習林まで広々とした道があって大源寺の方からでもムジェチギ瀑布(滝)まで簡単に行くことができる。
長堂谷はソリ峰が水源で、チバッモク山荘の下には海抜1,000m上に位置したムジェチギ瀑布(滝)がある。韓国語で自ら虹を作る滝と言う意味の‘ムジゲチギ’が訛って'ムジェチギ'と呼ばれるこの滝は、40m余りの巨大な岩壁の上に3段からなっている。上の第1段では三本に流れる水が2段では八本に散ってから、3段ではまた二本に集められて零れ落ちる。滝の水がいくつにも分かれて落ちるため、その音がピアノの鍵盤をたたくような、多くの楽器が合奏しているかのような、水量によって違って聞こえる心地良いアンサンブルを演出する。一説には新羅時代の音楽家于勒が、ここで水の落ちる音を聞いて木に糸を掛けて爪弾きながら伽倻琴を作ったとも言われる。
ムジェチギの滝を降りると、2千2百本余りもの松があるという五葉松の森がある。雑木一色である他の渓谷と違い、空を削らんばかりに聳える木々と渓谷を音を立てながら力強く流れる渓流は、まさに仙境と言える。長堂谷を隠された智異山の秘境と言う理由もここに来れば分かるはずである。
智異山天王峰の東北側、油坪渓谷に位置する大源寺は修徳寺の見性庵と石南寺と共に韓国の3大尼修行の道場として新羅の真興王の時代に縁起祖師が創建し、その後、何度も火災に見舞われて部分的に補修されたものの、麗水順天事件の時にパルチサンの討伐により全焼し、1955年にポプ・イル僧侶によって再建されたと言われる。
大源寺渓谷は深く鬱蒼した樹林と磐石が合わさって、神秘さ、そのごとくを感じさせてくれる美しい渓谷である。本来は村の名をとって油坪渓谷と呼んでいたのが、大源寺の尼寺としての清楚なイメージが加味されて、現在は大源寺渓谷と呼ばれている。
栗畑谷からチッパモク山荘と下峰、中峰を経て天王峰まで登る油坪里コースは約5時間30分程かかる。大源寺渓谷の渓流は智里山天王峰から中峰と下峰を経て、スッバッ嶺とセ嶺、王嶝嶺、栗頭嶺から熊石峰に繋がる山裾あちこちを水源とし、12㎞の谷間を下っていく。シンバッ谷とチョゲ谷、栗畑谷に集まる渓流はセ嶺と外曲村を通過しながら水かさが増していき、山清郡三壮面油坪里の尼道場である大源寺に至る。
渓谷には仙女湯、玉女湯などの滝沼や沼と洗身台、洗心台があり、一年の間、昼夜を問わず渓流で清められた岩が眩しいほどきれいだ。夏になると12㎞にもなる大源寺渓谷にはたくさんの人々で賑わう。美しい自然からなる渓谷は、休暇を過ごすのに持って来いの場所だ。
智里山麓の中でも南冥曺植の香りが最も染み付いていると言える所が白雲洞渓谷だ。早くに南冥が残したと言われる白雲洞、龍門洞天、嶺南第一泉石、南冥先生杖之所などの文字が盤石に刻まれており、‘青々した山に登ってみると世の中が全て青い色に包まれているようであるが、人々の欲心はとどまる事を知らない。美しい風景を見ながらも世の中の事に欲を持ちたがる。’という内容を書いた作品の現場でもある。
朝廷の要請にもかかわらず、生涯を官職に就かず智里山麓に隠居しながら多くの弟子を育て、文禄の役で豊臣秀吉が朝鮮を攻めにきた時には最も多くの義兵長を輩出した。大師匠らしく、世の貪欲よりも自然の美しさを見て学問に没頭した山林處士(所士、田舎に隠居して読書三昧にふける人)の真の姿を文字にして白雲洞渓谷に残した。
白雲洞渓谷の入り口は、宜寧郡矢川面中山里に続く国道20号に沿って行き、三叉路から河東郡玉宗面の方へ1㎞余り過ぎた所にある白雲洞渓谷の標識に従って行けばよい。
熊石峰から下り降りた雲山の山裾が、長く伸びて徳川江までに至り渓流となって流れているが、この渓谷が白雲洞渓谷である。熊石峰は鏡湖江と徳川江の間にあり、‘川は山を越えることができず、山は川を渡ることができない。’という平凡な真理を見せてくれている。魚川渓谷と清溪溪谷の水は鏡湖江へ、桂林亭渓谷と白雲洞渓谷の水は徳川江の方へと流れている。
渓谷に沿って山清郡丹城面白雲里店村の村に入ると、涼しい渓流の流れる音と共に‘白雲洞’の文字が刻まれた奇岩絶壁と‘龍門洞天’を知らせる文字が彫り込まれている岩盤が目に入る。その上には、そこで水浴びをすれば自然と知恵がわくという多知沼がある。幅26m、長さ30mに及び、周りは全部岩で囲まれており、夏には避暑に訪れる観光客で賑わう。また、高さ4m余りもある白雲滝と五潭滝という名の5つの滝と沼をはじめ、‘嶺南第一泉石’の文字が刻まれている登天台は、まさに渓流の水しぶきに乗って天に昇るかのごとく水の勢いが強い。
その他にも義なる事だけが聞こえるという聴義沼、アハム沼、ジャングン沼、龍沼などの沼や、脱俗瀑布(滝)、龍門瀑布(滝)、15ダム瀑布(滝)、チルソン瀑布(滝)、水旺城瀑布(滝)などがあり、士林学派の巨匠として朝鮮朝の士人たちの精神的柱であった南冥の足跡を辿りながら、安貧楽道(貧しいながらも節度を曲げず、心を安らかにして天道を楽しむこと)の風流をかみしめる渓谷である。
仙女が天から降りて来て遊んだとされ、学者たちが彼女たちの学習ぶりをテストしたと言われる仙遊洞渓谷は、山清郡新安面安峰里スウォル村の後ろにある。晋州から山清邑に至る国道3号に沿って行くと、韓国で初めて綿を広めた三憂堂・文益漸の功を称える道川書院が見える。ここを過ぎて最初に入った村から旧月城小学校の方を右に曲がっていくと仙遊洞渓谷の入り口であるスウォル村がある。
山清が学者の地であったためか、曲がりくねった渓流に杯を浮かべ、杯に手が届く前に詩を一編作って詠むという曲水流觴の粋な風流さがある渓谷が仙遊洞渓谷だ。
仙遊洞という文字通り、仙女が降りて来て遊んだ所である。その証拠に、渓谷に仙女が酒を造って溜めておいたという甕が2つもまだ存在していると言うが、実際に滝の上の方にある巨大な盤石には直径50cm、深さが2m余りの甕の形をした大きな穴がある。学者たちが仙遊洞で仙女を招く詩を作って天に捧げる一方で、酒を飲みながら仙女たちを誘惑したかどうかは知るすべもない。
竹や松の木が青々と茂るスウォル村は、仙女たちが遊んでいった美しい景色の下にある村らしく、風雅の趣のある所だ。村の前を流れる渓流に沿って1㎞ほど行くと、岩壁の奥に隠れたスウォル瀑布(滝)が見える。水流は多くないが、高さ15メートル余りの所から落ちる滝水の様子は、女性のスカートの形に似て優雅で上品さがある。
滝水が集まる滝つぼもやはり、“糸巻きを3つ解いて垂らしても底に届かない。”という言葉にもある通り底深いだけでなく、周りに松林が鬱蒼と茂って神秘的な雰囲気さえ醸し出している。特に滝のある岩の上の方には龍の痕跡らしきものが刻まれている。伝説によると、龍が昇天する時に滝水の両側の岩の上を歩きながら、ゆっくりと天に昇っていき、その時の足跡がつながって、二筋に長く刻まれているのだと言う。仙遊洞の美しさが十分に表現された伝説である。
仙遊洞の名の由縁となった渓谷は、滝からさらに1㎞登ったところにある。仙女たちが造った酒を溜めておいたと言われる甕の形をした穴をはじめとし、自然にできた岩のへこみから、仙女たちがお酒を飲んで踊りを踊った時にできた足跡だと言う。あたかも本当であるかのような解説を聞きながら、酒を飲んで歌ったり踊ったりを楽しんだ、韓国の民族性を改めて思い出す。
熊石峰の裾に位置する魚川渓谷は、鏡湖江の支流であり、その規模や水量は少ないものの、水が清く静かなため、夏は観光客が後を絶たない。
智里山の東側の裾にあり、山清の数ある深山幽谷の中でも、自然のままの形がある程度保たれてきた渓谷の一つが、この五峰渓谷である。左青龍と右白虎の間からジョウゴの形をしている所に水が流れこみ渓谷となったわけだが、五峰里から見下ろす渓谷の姿はまさしく絶景である。夏場は人手でごった返すような人気の渓谷に比べれば、全く静かだ。
五峰渓谷の五峰は、村の北側に5つの山が峰をなしていることから来ているという説と、五峰と村に向かって5つの山並みが伸びて降りていることからという二つの説がある。
ここ五峰里には慶州金氏一族が栄華を極めて住んでいた所であるというが、現在はわずか10所帯のみが住んでいる。渓谷の左右から流れ落ちる渓流が一つになって流れていく、その美しさは見る者を感嘆させる。その上、渓谷の中上流にある盆地にひっそりとたたずんでいる村が、いっそう寂しさを感じさせる。
徳川江は山清を水源とし、山清の魂を清く洗い流してくれる川であり、新羅と高麗の守護神を祀る聖殿であると共に、朝鮮の開国に反対した智異山の神秘さを備えた川である。智異山・天王峰の麓から湧く天王泉をはじめとし、智異山の霊妙さを携えた帝釈天、乎也と連眞の伝説を生んだ陰陽の泉から始まる中山里渓谷の水によって自然に虹ができるムジェチギ瀑布(滝)と清楚な尼たちの読経の声、そして静ずまりかえった大源寺から流れてくる水と合流する徳川両端水から晋陽湖に至るまで、壮大な山々が数々の話を聞かせてくれる。
中山里渓谷から流れてきた水と大源寺渓谷から流れてきた水が出会う地点が両端水である。 水がどれほどきれいで、周囲の景色がどれほど美しければ武陵桃源と表現するだろうか。南冥は生涯を官職に就かず、見上げれば智異山が見える両端水のほとりに山天斎を建て「心に正義を育て、体でその正しさを実践する」という敬義学を自ら行い示し、教えた。徳山を過ぎて熊石峰の下の麻根潭から流れてくる水と、徳山から河東を過ぎたカルチ峠(山清では中台峠と呼ぶ)から流れてくる中台川によって水かさを増しながら紫陽の野原が形成された。徳川江の豊富な水と智里山から流れてくる肥沃な堆積物に恵まれて、紫陽の野原はいつも豊かだ。 紫陽の野原に水を送るために塞いでおく紫陽洑は、自然発生遊園地として夏になると避暑客で賑わう。紫陽洑の下に降りて行くと、白雲渓谷の渓流が加わって、そのまま河東郡の玉鐘面へと流れていく。玉鐘を経て晋州の水谷面を通り、晋陽湖に流れ込む徳川江は、山清を通ってきた鏡湖江と交わってから南江へと流れ、再び江原道大白の黄池を水源とする洛東江に合流しながら、南江5百里の旅程に幕を閉じる。
智里山の最高峰である天王峰をはじめとした渓谷が中山里渓谷だ。中山里とは地名からもわかるように、智里山の中間ほどに位置しており、早くから智里山登頂の出発地として利用された。5百年余り前、馬と下人、弟子たちを率いて智里山に登った金宗直をはじめとし、金馹孫、曹植、李陸のような学者たちも智里山から天王峰に登ったと記録されている。
昔から多くの人々が訪ねた渓谷らしく、また南江を経て洛東江に続く徳川江の水源地らしく、渓谷の美しさもすばらしい。公園の切符売り場を通り、現在、智里山の登山路を開拓した許万寿を記念して建てた碑の横を登ると、天王峰登山路であり中山里渓谷をなす主要谷、法川谷に入る。
海抜1,750mに位置するジャントモク(市が立つ場所)真下にある山姫泉から始まって、法川谷は法川瀑布(滝)、ユアム瀑布(滝)、ムミョン瀑布(滝)をはじめ沼や淵がいたる所にあるため、交響楽のような雄大で力強い音や室内音楽のような静かな水の音を聴くことができる。
山清側の中山里と咸陽側の白武洞からそれぞれ9㎞の距離にあるため、重い荷物を背負ってジャントモク(市が立つ場所)まで登り着くにはどちらからのコースが良いのか?山清からは法川渓谷、咸陽からは韓信渓谷を通って来ながら、それぞれに夏は涼しく、秋は渓谷を埋め尽くす紅葉が美しいことから、どちらから行っても損はなさそうである。
中山里渓谷をなす支流に順頭流がある。中山里の切符売り場から車道に沿ってあるのが順頭流である。智里山の別名である頭流山からきている順頭流は文字通り、頭流山から土砂が流れて自然と平地ができた、という意味でつけられた名だ。順頭流渓谷の入り口の平原には一時、火田民が住んでいたというが、現在は慶尚南道自然学習院となっている。学習院があるため、順頭流まで車でも行くことができるが、行楽客の車は切符売り場までしか入れない。
天王峰と中峰の間から発した渓流が龍湫滝を経て水かさを増し、ソリ峰から流れてくる渓流と合流してからは力強い音と共に美しい景観が広がる。10年程前までは、人々が一枚岩の上で熱心に祈りを捧げ、ロウソクのロウが乾く日がないほどだった。渓谷の美しさだけでなく、天王峰から流れ来る山の気運が順頭流にあるとし、祈りの効果が高いというのが彼らの信仰であった。実際に順頭流が良い気運を持った地であるからか、一時は朝鮮人参の栽培地として脚光を浴びたこともあったが、パルチサンが登場してからは長く続かず、現在は山参を採りに来る者がいる程度だという。
法川谷や順頭流の渓谷を楽しむためには、登山の準備をして行かなければならないので少し面倒かもしれない。それよりも家族同士、自然の中で1日過ごす計画で中山里渓谷を訪れ、徳山から中山里に続く道路沿いの片隅に座って日頃の憂いも渓流に流し、久しぶりに家族団らんの時間を過ごすのがいいだろう。
慶尚南道山清郡今西面紙幕里に位置した45,000m規模の紙幕渓谷は栗頭嶺を越え、平地に降りた所にある。この遊園地は森の中にあって、渓流の水もきれいで水かさも豊富なため、夏になると避暑客で賑わう。しばらく登って行くと、白い水しぶきをあげた涼しい渓谷が目に入る。
原始自然林をはじめ、わずか30年余り前まで火田民たちが住んでいた家跡や畑の跡がわずかに残っている。そのほかに、天地岩と中国の黄山で多く見られるような岩の上の松の情景も鑑賞できる。渓谷の端には天光寺という寺がある。
周辺の観光地としては王山、筆峰山、熊石峰、仇衡王陵、徳陽殿、天王寺など名所が多く、山清の様々な面を見ることのできる所だ。家族ずれで訪れ、カワニナ(宮入貝)を捕まえたり生きた魚やアオハダトンボを鑑賞し、自然環境学習をするもよし、夏の休暇を利用し都心を離れ、久しぶりに友人たちと共に澄んだ空気を吸いながら、ストレスも解消し、自然に酔いしれてみるのもいいだろう。また、カップルで仲むつまじくデートを楽しみ、美しい思い出を作るにも相応しい場所だ。
夏のシーズンになると多くの人々が訪れる自然発生遊園地で、駐車施設、キャンプ場、トイレ、給水施設などがよく整っている。
渓谷はこじんまりしていて、入り口には巽項貯水池がある。周辺には黄梅山、傅岩山がある。
先史時代の遺跡である‘立石’をはじめとし、千年の風雪に耐えた石塔が今も残っている断俗寺址。600年余りの樹齢を誇る梅ノ木(政堂梅)が、春になると花を咲かせ、厳しい嫁いびりに耐え切れず死を遂げた、ある女性の恨めしい生涯が未だ頂の石墓として建っている渓谷が、清渓渓谷である。名所が多く、それにまつわる逸話も多い渓谷だけに、車でまっすぐ行けるように道がよく整っており、清渓、断俗などの名からして、だだならぬ所ではないことがわかる。
Hまず、渓谷の水がどれほど澄んできれいなら‘清渓’と名づけられ、谷がどれほど深くて俗世と縁を断つと言う意味の‘断俗’としたのだろうか?まず、清渓渓谷の入り口にあたる南沙村からして、物寂しい雰囲気を醸し出している。綿を初めて栽培した培養村から中山里方面に4㎞ほどの距離にある南沙村に入ると、情感のある土塀の家の前に大きく構えたソスル大門、そして古拙な味わいのある40余りの瓦屋がある。周囲を森に囲まれ、朝鮮時代の両班の雰囲気が感じられる村だ。
南沙村を過ぎると虎岩橋の上に雲谷観光農園、多勿民族学校などの標識が見え、その標識に沿って入ると清渓渓谷がある。渓谷に入ると立石村が見える。立石小学校の校庭にある高さ約2mの先史時代の遺跡である‘立石’は、清渓渓谷の長い歴史を語ってくれる証拠であるといえよう。その先が‘広斎嵒門’が刻まれてた巨大な岩石のある渓谷である。
道路から離れているため、通り過ぎてしまいやすいが、すぐここからが断俗寺で、家族ぐるみでキャンプができる空間があり、道路沿いには民宿もあって休息の場としてもちょうど良い。また、新羅時代に創建された古寺である断俗寺は現在、国宝72,73号である3層石塔があり、一時は景徳王の肖像画と率居が描かれた維摩像のほか、それぞれ形の異なる石仏だけでも500余基があったという。
石塔があるため村の名も塔里という断俗寺の跡には、昔あった寺の規模を物語るかのように幢竿支柱が石塔からそう遠くない所に離れて見える。幢竿支柱を過ぎて石塔の前に上がると、千年の歳月を過ぎてもその姿を失わずにいる2基の塔が東西に並んでいる。特別な技巧もなく整えられた上品な姿の石塔は、それだけでも、過去の歳月の風霜を全て語ってくれている。特に石塔の前の竹の木は、石塔を守るかのようにまっすぐに立っていて、後ろにある政堂梅と呼ばれる梅ノ木と碑閣はまた一つの伝説を伝えている。
政堂梅は、姜淮伯が少年時代に断俗寺で学んでいた時に梅ノ木を植え、彼が科挙の試験に合格して‘政堂文学’という官位を得たことで付けられた名だ。朝鮮時代の金馹孫は『続頭流録』で‘楼閣の欄干にもたれて前庭を見たら、枝を広げた梅ノ木があった。これを政堂梅という’と記述している。これからすると、現在の塔の後ろの方に大雄殿と楼閣があったようだ。しかし現在は、昔の法堂跡が民家になってしまい、蓮の花模様が鮮明に刻まれた石材で塀をめぐらせてあったり、犬をつないでおく標石として使われているだけに過ぎない。歳月の無常さと人々の無関心さが重なって生じた、何ともやるせない姿である。
塔を後にして峠道を上がると、右のほうに清渓渓谷の白眉と称する渓谷が現れる。夏になると、寺の名残である両岩の隙間に立つ松の木陰は、テントが立ち並ぶ場所となる。ここがなければ清渓渓谷という名もなかったという程、美しい渓谷である。広々した渓流に小石からなる空き地があり、水もきれいな上に深さも大人の膝ほどなので、水遊びには最適な場所だ。