文化観光

Welcome to Sancheong!Sancheong, the hometown of Mt. Jiri and the clean town of traditional Asian medicine.

葛田山
葛田山

葛田山は、山清郡の管内で一番北側に位置している山で、葛が多くて葛田山と言われる。登山路はよく整えていないが、山清北側の山の踏査登山地にお勧めしたい山である。

葛田山登山路は山清邑で3番国道を走って咸陽方面へ向かう途中、生草面所在地の於西里の入口で1034番地方道を利用する。舗道が終わる向陽里6㎞地点のオウンドン(村)の右側の林道に沿って1㎞ほど行くと、林道が終わって本格的に葛田山の登山路入り口が出る。

葛田山頂上は左にある高い峰であるが、ここからは文字通りの葛畑だ。この葛畑に沿って1.5㎞を行くと、カルバッチェ分かれ道がある。ここから右方は居昌郡神院面清水里に渡る道、左方が頂上へ行く道である。分かれ道から頂上までは600mであり、頂上に立つと德葛山、每峰山、保錄山、バラン山など山清北側の居昌地域の山々が全部眺望できる。だが、葛田山の

山道は短くて物足りない気がする。 そういう人たちには、頂上から每峰山を経て向こう側の德葛山に渡り、630峰と645峰を過ぎて降り立つと、向陽里のオウンドン(村)に出るので、あまねく足を運ぶのをお勧めしたい。しかし山道がはっきりしなく、オウンドン(村)から原点まで帰ると距離が12㎞もあるので、読図に自分ある人のみ素敵な山登りができるだろう。愛する家族・カップル・友達と一緒に美しい情景も楽しんで困難な山道を共に歩いて、厚い友情と愛を作ってみよう。

九曲山
九曲山

九曲山は文字通り九曲があることから九曲山と言われ、黄金稜線の入口である稜線に立てば、智異山天王峰が手に取るように近く見える。天王峰に登ると天王峰が見えないが、九曲山に立つと春はツツジ、秋は紅葉など悔いのない登山になれるだろう。.

智異山黄金稜線コースは新たな山道が噴き出す新鮮さと霊山が与える神霊さが一度に感じられる登山路である。この道は天王峰の足元に近く、茂った山竹区間を探検するように踏み分けて行く山登りがなかなか面白い。

起点は晋州から中山里行きの道に位置した山清郡矢川面院里徳川書院(朝鮮時代の大儒学者の南冥曹植先生史跡地で史跡305号)起点―トソル庵―ヘリポート―巨大な‘自然保護’立て看板-九曲山頂上―黄金稜線を経て国守峰に着く直前、中山里の駐車場から下山する。

目の前の一番高い霊峰が天王峰、左から七仙峰 、三神峰 、チョッテ峰 、市場モク(市が立つ場所)、帝釈峰 、中峰が列をなす。 いわゆる南部稜線である。 ‘智異山展望台'という別称の山々がいくつかあるが、近くてはっきりしているのは九曲山が一番だろう。頂上から登って来た道を約30Mあまり進むと分かれ道に出る。右方は原点に戻る下山の道、左方が国守峰方向であり、下山道の所々はツツジの天国だ。進むほど智異山は近くなる。頂上から出発して15分、東堂里方面の下山道に繋がるヘリポートに出る。

ここを過ぎてから黄金稜線が始まる。上り下りする傾斜は耐えられるくらいであるが、原始林の雰囲気が漂う山竹区間は厳しい。大人の背丈よりずっと高い山竹の抜け道を進むには頭を下げて土地を見ながら歩まなければならない。大体10個以上の長くて短い区間を突破しなければならないので、山竹の中で道に迷わないように格別に気をつけて体力管理も慎重にしなければならないだろう。

九仞山
九仞山

九仞山の仞の文字は一尺、二尺と高さを意味する'仞'字を使ってしていて、九は最後の数字で一番高いという意味である。また、九の道がある山という意味もある。歳月が流れるに連れ道はかなりなくなっている。今も道が多いが、森があまりにも茂って眺望や道を探すのが容易ではない。山清の北側の山で、夏の休暇シーズンには複雑になる有名な渓谷などより、原始林を感じさせるクムコク渓谷と共にする登山道である。

花峰山/会稽山
花峰山/会稽山

山清邑から遠くない場所にあって散策路として脚光をあびる場所である。最近は夜の散歩もできるように街灯がつけられて、夜にも散歩が可能である。ここは朝鮮時代古山城があったところで、散策路の周辺で瓦の欠片を発見したりすることもある。

頂上まで約20分所要し、頂上には展望台と遠くの美しい風景を眺めるように望遠鏡が設置されている。ここでは鏡湖江、熊石峰、山清邑の全景、筆峰山・王山などを眺望することができる。

大聖山
大聖山

大聖山は正趣庵を抱いた山である。近くの屯鉄山の名声に隠れていて、多くの登山客が訪れることはないが、半日登山道に遜色がない。正趣庵のひっそりと静まりかえった雰囲気を感じられる場所である。

トルダム(石垣)山

丹城面倉村里クマン村の裏山に白雲洞渓谷の入り口の右側にある。頂上は、各種の携帯電話会社の基地局があり、新年の日の出を迎えるところである。

屯鉄山
屯鉄山

屯鉄山は黄梅山から始まる稜線が浄水山を経て鏡湖江の山裾まで届いたところに聳え立っている山である。山清邑と新安面、新等面の間に位置し、熊石峰と向かい合っていて鉄を生産したところだという伝説がある。しかし'ドゥンチョル(屯鉄)'という地名から見て、生産地よりは保管地だという説がもっと説得力がある。

登山道は多様である。新安面シムギョ村がら深い谷道を過ぎ、屯鉄山の頂上まで直接登るコースと、外松里から岩峰を経て頂上まで登るコース、月城小学校・屯鉄分校がある屯鉄から頂上まで登るコース、尺旨村から頂上まで登るコース、新等面の丹渓里から正趣庵を入口として大聖山まで登り、尾根伝いに屯鉄山まで繋ぐ縦走コースがある。

四方を見回すと、先に熊石峰裾が鏡湖江を沿って長く続いているが、その姿がまるで大きな一匹の熊がうずくまっているかのような様子である。熊石峰から右側へ目を向けると浄水山を越えて、居昌郡まで繋がっている山裾が引っ切り無しに見えて、その右側には大聖山に繋がる稜線が続いている。

バラン山/巣龍山
バラン山/巣龍山

バラン山と巣龍山はその地名から見ると、バラン山の‘バラン’が巣の意味で、巣龍山の‘巣'は文字通り巣や家のことである。つまりバラン山はすべての鳥の巣であり、巣龍山は龍の巣山だということで、龍と鳥の巣だという意味は明らかである。山清郡梧釜面の奥地村である烏休村と居昌郡神院面の警戒地点にある山で、山清郡の山の巡礼コースでもある。自然そのままの森と奇岩怪石がよく似合う山清管内の北部地域の奥地山で素朴な登山を好む登山客を待っている。
巣龍山の頂上に立つと、天王峰、王山、熊石峰、紺岳山、月如山、目前のバラン山など山清の名山と居昌の山々が一望できる。

巣龍山の頂上から烏休村を眺めながら左側の急傾斜道で降りるとバラン山に着く。1㎞ほど行けば分かれ道であるが、左側は烏休村に下山する道で右側は居昌の大峴里に下山する路である。右側に見える大岩壁はセイトゥムで、なぜかこの岩壁をよじ登ってみたい衝動を感じたりもする。

分かれ道で上り下りしながら2㎞ほど行けばバラン山の頂上である。頂上からの眺めは巣龍山と似ているが素朴な山下の村から親しみを感じられる。また違う味の稜線道も楽しむことができる。

白馬山
白馬山

白馬山は、高さの問題はか構わなくていい。近隣地域の遺跡地踏査と共にする老年の登山道として遜色なく、夏には川と山をあまねく楽しむことができる。

白馬山一帯の景色は昔から美しいことで有名である。

白馬山は三面が絶壁からなっており、周りが2,795尺、南東側は100尺余りの天然の山城である。頂上は平坦であるがここには池と倉庫の跡が残されている。また岩盤には深さ15cmほどの軍用で使われたと思われる穴が100個あまり残されている。この城は戦乱の最中よく使われたという。

また、ここは丁酉再乱の時、李舜臣イ・スンシン将軍が白衣従軍の際に陜川哨戒の權慄將軍陣営から出発して、南海の戦況を探るため通りすがりにこの山を登ってみたところであり、また丹城県で一晩宿泊した行路でもある。

白馬山下の外山周辺には先史時代の遺跡古墳群があり、川を間にして江楼村の上方には、先史遺跡が散在していて歴史的資料として保全されている。サンソン村には楸岡・李昌が講学した油然斎があって采礼を行っており、少し距離を置いて位置する安谷影堂には隴西君・李長庚、文烈公・李兆年、敬元・李褒、慕隠・李仁立、景武公・李済を配享している。

傅岩山
傅岩山

傅岩山は師匠の‘傅’の字を使い、別名師匠岩山とも言われる。
傅岩山から南東方向に500mほど離れたところに襲われるような絶壁の上にチェンイ岩があるが、その下に龍井という神秘な泉がある。この龍井に必ず一人で訪れ、三度礼をして両手で 丁寧に泉の水をしゃくって飲むと、三年以内に師匠や賢人に出会うという伝説がその名前の由来だと伝われている。

傅岩山は黄梅山の最南端山脈に位置していて、二つのそびえた岩峰からなる。山清郡と陜川郡へ分かれて山脈が繋がっており、黄梅山から続いた山脈がそれ以上連結されずここで終わる。頂上から壮大な黄梅山の稜線両側の奇岩怪石と岩山などの高い峻棒らを眺めるには不足はない。春には黄梅山のツツジと連携され絶景になり、黄梅山登山の入口になったりもある。.

石岱山
石岱山

新羅の古寺、断俗寺を抱いた奇岩怪石である石岱山の‘岱’の字は泰山を意味することから泰山のような大きな岩が多いだろうと思われるが実はそうではなく、仕組みのある奇岩怪石が泰山のごとく立ちはだかっている。石岱山の入り口から見ると吉地(明堂)の形状をする山である。

松義山
松義山

松義山は山清北部に位置し、高度は高くないが山清管内の山をまんべんなく踏破するには欠かせない山である。山の麓で孝子がたくさん住んでいたと言われていて、その孝心に満ちた山勢を感じることができて意味ある山でもある。

松義山裾のハンジェ村の前の旌閭には'孝子康處文之閭'と書かれている。孝子の康處文は大変な親孝行で、祭祀料理を好む両親のために夜になると一日も欠かさず村と他の村まで行って祭祀料理をもらってきたという。そうしたある晦日、祭祀の噂を聞いて遠い村まで訪ねていって祭祀の料理をもらってその家を出たところ、真っ暗な晦日の夜道が寸歩をわきまえないほどで山道をさ迷うことになってしまう。
ひたすら食べ物を大切に抱えてさ迷っているところ、二つの光が近づいてきたのだが、なんとそれは虎の目から出る光だった。驚いて立ち止まっていたら虎は尾で背中を弾きながら乗れとふりをしたので乗ったら、一目散に走って瞬く間に家の前に下ろしてくれて無事に両親を保養することができた。そのように仕えてきた両親が亡くなってお葬式を行うことになったが、その時は冬だった。喪輿を担いで川を渡らなければならなかったが雨で水が溢れて渡れなくなっていた。康孝子が泣き喚いていたその時、急に川の水が止まって無事に川を渡ることができた。この噂が遠近に知られて天の親孝行だと言われ国中に知れ渡り、朝鮮明宗時代に旌閭を建てたのである。

王山/筆峰山
王山/筆峰山

駕洛国の滅亡を見守った仇衡王の御陵と三国統一の主役金庾信が弓術をしたと言われる射台がある王山、そして士人の地元である山清を象徴するという筆峰山は、山清郡今西面一帯に高くそびえている。このような事情を抱えているので山の名前も王山である。

智異山には予想外に駕洛国と関わった話が多い。王山と智異山を繋ぐ籏峰や、未だ城郭の姿が残っている王登嶺、七仙渓谷の近くにある国谷などには駕洛国の伝説が生きている。籏峰は駕洛国を象徴する旗を挙げた場所で、王登嶺は‘王様が登られたところ’だとそう名付けられて周辺には土城が残っている。また国谷は‘国があった谷間’という意味で、穀物を保管したという‘トゥジ址'と‘氷址’などの地名があり、七仙渓谷の入り口にある湫城里も国谷にあった杻城山城から取った名前だと言われている。歴史を失った国と称される駕洛国の来歴が伝説に残っているここが智異山麓である。

大体登頂は稜線に泉がある王陵の石垣に沿って登る道を選ぶ。5分ほど大変な坂道を登ると、松の森の中に出ているやわらかい土道がしばらく続く。この小道を1時間ほど登ると視野が開けた広々とした芝生に至る。

ここから10分ほど小道を登ると主稜線に至る。仇衡王陵から1時間40分ほど行くと、いわばヨウ(キツネ)峠とくびれた峠に上がる。最後の上り坂は冬になると凍ったり溶けたりする気候変化の影響でかなりじめじめする。ススキが壮観であるヨウ峠に登ると、右側には筆鋒が、左側には王山の頂上が見える。しかし実際には、王山の頂上を区別するのは簡単ではない。目の前に見える円形の峰なのか、つんつんした岩がそびえる岩峰なのかは遠くから見ては具体的にみつからないからである。

ヨウ峠から見える筆鋒の姿は独特である。見る人の見方によって山の名前通り、筆先を連想されて筆鋒または文筆峰にも見えるが、ある人は女人の胸を連想して、乳房峰、乳頭峰と呼んだりもする。高さは隣の王山より75m低いが、山の姿が印象的であって視野には筆鋒山が先に入ってくる。筆鋒山の頂上は目に見える通り岩塊だけで構成されている上に尖っていて、四方は険しい急傾斜なのでヨウジェ(峠)の方のほかには接近することが難しい。

巨大な岩が集まって岩峰をなしている頂上に立つと筆鋒が手に取るように見え、山清邑一帯と鏡湖江、厳川江の悠長な流れが一目に入る。また、智異山天王峰から熊石峰まで一度も止まることもなく長く伸びた山裾が一目瞭然に見える。

下山は頂上の下に伸びた道に降り立つといい。急傾斜である上、冬には道がかなりじくじくとぬかるんでいる。入り口をあえて王陵の石垣に沿って登る道を選んだのもこの急傾斜を避けるためである。松の森をしばらく下げると、望京台という岩がある。望京台は‘忠臣は不事二君’という志操を守った士人のこだわりがただよっている岩である。高麗時代に判書の官職についた農隠・閔安富は、国が滅びると高麗の士人が朝鮮に行くことはできないと、杜門洞に入って山清に都落ちして暮らした。望京台に上がり松島を眺めながら亡国の恨みを癒したという。

熊石峰
熊石峰

1983年11月23日、郡立公園に指定された熊石峰は智異山から流れてきた山であったが、智異山を一番よく見られる山である。天王峰から始まった山脈が中峰と下峰へ繋がり艾田嶺∼セ峠∼ウェ峠∼王登嶺∼籏峰を経てパムモリ峠に至る。そしてまた突き上がるところが熊石峰である。山清邑から熊石峰を見ると、まるで山清邑を取り囲んでいる屏のようである。智異山を防ぐように立ちはだかって、まるで山清邑を囲んで流れるような鏡湖江に水を流してくれる。また、秋になると華やかに染まる紅葉で山全体が燃えるように見える。

熊石峰は、文字通り‘熊岩の山’である。山勢が激しくて熊が落ちて死ぬほどだと言われ、または山の形が熊に似ていることから熊岩山と呼んだりする。山登りは智谷寺を経ってから始まる。智谷寺を経て熊石峰本流と支流が出会う合流地点を渡ると山道に入る。ここから右側に登るとなだらかな稜線と繋がる登山路であり、渓谷に入ると登山路としては厳しいが、韓国自然保存協会から‘韓国名水百選’に選定した仙女湯を鑑賞できる。どちらに登っても同じ稜線に登るので好みによって選択すればよい。

熊石峰は独立した山でありながらも智異山と接している。山を知る人なら誰にでも、熊石峰に登るとパムモリ峠を過ぎて王登嶺と艾田嶺を通り天王棒に至る33㎞の大長征を志す。駕洛国の伝説を抱えている籏峰と王登嶺が与える神秘は尋常ではない。仇衡王陵の後、王山とともに王様が登られたと言われ王登嶺と呼ばれているここ沼地には未だ城跡が残っていて、駕洛国の様々な伝説が村の年寄りたちの頭の中にまだ生きている。

月明山
月明山

月明山は新安面安峰里と中村里を仕分ける山で安峰里仙遊洞渓谷の進入路の右側にある山であり、赤壁山-白馬山-月明山に繋がる登山コースとして脚光を浴びている場所である。ここは毎年、新年行事を行う場所でもある。

登山方法は新安面中村里下村村の林道を沿って月明寺の入口に車を駐車してから登山したり、安峰里スウォル村の進入路から登山路を沿って登山するといい。

二方山/ カムトゥ峰
二方山/ カムトゥ峰

カムトゥ峰、二方山は九曲山と同じく智異山の衛星峰であり、天王峰登山ができない時に利用できる魅力的な山である。だが、登山路が明確ではないため読図に自分がある人のみ楽しく山登りができるだろう。何よりも原始林そのままの姿であって魅力満点の登山道に遜色ない。

二方山の登山道入り口の德橋里村の前には破寇亭というところがあるが、ここは文禄の役の際孫氏3兄弟率いる義兵たちが潜伏し、日本軍を迎え戦い勝ったところで日本軍を破滅させたとしてこういう名前が付けられた。

三壯面と矢川面の間にそびえているこの二方山は、文禄の役の際、義軍を起こした由緒あるところでその足跡が歴然と残っていて、三壯面徳橋里から海抜600mに至る二方山をを超えれば矢川面絲里の麻根潭に至る。ここは熊石峰から南へと伸びた支脈が割れた谷間で人跡まれな深い山谷である。

赤壁山
赤壁山

赤壁山は高さの問題はか構わなくていい。近隣地域の遺跡地踏査と共にする老年の登山道として遜色なく、夏には川と山をあまねく楽しむことができる場所である。

秋になると赤壁に紅葉が染まり満月がその上に舞い上がる。涼しい川風と明るい月が風情を加えると、川に船を浮かべ夜を徹して遊びが続いたりしたが、ある日崖から川に落ちて来た岩に城主の乗った船が壊れてしまって、つい川に溺れてしまい官人を失ったという古史が伝えている。

中国の地名を追って‘赤壁’という名前を付けたのはここの景色が優れたことから由来したものである。そしてこの地方には蘇東坡の赤壁遊びを模倣して‘キバンギェ’という集まりがあり秋七月既望の16日になるとここへ集まって布施と舟遊びを楽しむ。新安津という昔の船渡し場が近くいたので往来する旅人がもっと多かったはずである。ここの風景を詠う詩が数え切れないほど多いのも景色が詩心をわかせるに十分だったからであろう。

浄水山
浄水山

浄水山は古寺の‘栗谷寺’と多くの岩登りの人たちが岩壁訓練場として利用する‘鳥神岩’が最高の見どころである。慶尚南道山清郡山清邑内水里、尺旨里、新等面栗峴里にかけている水がきれいな山で、地形上には山清管内の全ての山の中心山である。登山コースとしては、栗谷寺駐車場から始め、鳥神岩、交差点、浄水山に上がって下山は逆順に戻ってくる。

鳥神岩は高さ60m、幅40mほどで単一の岩では韓国最高だと言われる金猿山の門岩と比較しても何ら引けをとらない。鳥が座っている形状の鳥神岩は登りながら巨大な岩だろうと感じられるが、その考えとは違って岩の頂上には大小の岩が互いに一つに結ばれて大きな岩の形を成している。鳥神岩から見上げられる稜線と三角点のある峰は言葉には表現できないほど美しい。また、鳥神岩の枯死木は妙な感じを与えている。命は偉大で、どのような物でも生きているものはすべて偉大なものだ、という気がするほどである。鳥神岩に根を下ろしてその偉大な生命を繋いでいる枝の多い松は浄水山の情景に一役果たしている。

交差点を過ぎて浄水山の頂上に登ると最初の頂上石から50mほどのところにまた他の頂上石がある。浄水山頂上はまるで裏山を登ったような安らかで穏やかな感じでする。浄水山の展望台は鳥神岩よりもっと広く眺望できる場所である。下り道は急な坂道が多いので転ばないように気をつけよう。

主山
主山

主山は智異山の衛星峰であり、三神峰の山脈が南下して徐々に東方向に行き、矢川面内公里でもう一度舞い上がった峰である。智異山天王峰が頭で胴だとしたら、主山まで下ってきた山脈はまるで長い右腕でのようで、それは九曲山を抱えた形をしている。

主山の稜線や眺望点では智異山の天王峰をはじめとする多くの峰を遠くで一目で見ることができてその景観が優れている。主山自体より智異山と周辺山勢を眺望させてくれる山であって、自分の勇ましさよりは他人の素晴らしさを見せてくれる凄く謙遜した山である。
主山は王様を意味する‘主’の字を使っている。王様が天王峰に登られることができない時一番よく見られる山を選ぶなら、まさにこの为山かもしれないという想像を可能にするところである。九曲山と一緒に天王峰の衛星峰の一つであり、天王峰を登ることができない時緊要に利用できる山で遜色ない。特に九曲山では見られない中山里智異山の眺望を思う存分楽しめる。この山は三神山と霊神峰を繋ぐ重要な天王峰の展望地である。为山の稜線と谷間の続々と山竹で自分を隠しているので安心してあちこちを見ることは難しいが、山の獣たちにはとても良い憩いの場所になれる山である。

智異山(天王峰)
智異山(天王峰)

智異山は金剛山、漢拏山とともに三神山の一つとして知られており、新羅の5岳の中で南岳であり‘愚かな人(愚者)が滞在すると、賢明な人(智者)になる’という話から智異山と呼ばれてきた。白頭山の山脈が朝鮮半島を沿って下りてきて、ここまで繋がったという意味で‘頭流山’と呼ばれたり、仏家で悟りを得た高位僧侶の居所を指す‘方丈’のその深い意味を借りて‘方丈山’とも呼ばたりした。

智異山国立公園は1967年12月29日、韓国初の国立公園に指定された所である。慶尚南道河東郡、山清郡、咸陽郡、全羅南道求礼郡、全羅北道南原市など3つの道、5つの市・郡、15の邑・面にまたがっていて、その面積が440.517㎢もあり、これを換算するとなんと1億3千坪を超える面積となる。これは鶏龍山国立公園の7倍で、汝矣島面積の52倍くらいで20の国立公園の中で陸地面積だけでは最も広い。

智異山は、韓国で二番目に高い峰の天王峰(1,915.4m)をはじめ、帝釈峰(1,806m)、盤若峰(1,732m)、老姑壇(1,507m)など10個あまりの高山峻嶺が並んでいて、天王峰で老姑壇まで至る主稜線の長さが25.5㎞で60里を超え、智異山の周りは320㎞で800里もある。

天王峰から発源して流れる水で渓谷を形成している七仙渓谷をはじめ、ベムサゴル渓谷、大源寺渓谷など、数え切れないほど多くの渓谷と佛日滝、九龍滝、龍湫滝など優れた自然景観は名山として全く遜色ない。また華厳寺、双磎寺、燕谷寺、大源寺、實相寺などの大寺院をはじめとする数多くの庵と文化財はここが韓国仏教の産室であることを証明している。

智異山は、数多くの植物や動物、そして人の住家を提供してくれる生命の山でもある。天王峰から老姑壇に至る为稜線の中で、まるで両手を広げているように南北に流れている15個の稜線と谷間には245種あまりの木本植物と579種あまりの草本植物、15果41種あまりの哺乳類と39果165種あまりの鳥類、215種あまりの昆虫類が生息している。

智異山の規模は川、峰、峠を見ても計り知ることができる。智異山から発源した川は德川江と厳川江、黄泉江を成していてその峰は20を超え、名高い展望台や岩が50を超える。記録によると一時は350ヵ所あまりのお寺と庵があったという。そしてその中には説話と文化財も数え切れないほど多い。麻耶姑と般若道士、乎也と連眞などの説話から理想郷と神仙の伝説を抱えている智異山。一時、350ヵ所あまりにお寺と庵があったという記録に国宝だけでも7点、宝物26点に地方文化財と主要史跡地、民俗資料まで全て数えなくても智異山はそれ自体で既に十分な宝山であり、どのような修飾も必要ない山である。

集賢山
集賢山

集賢山 : 徳望の高い比良道層が徳を施した地方、生比良
集賢山は昔、頂上が七坪であって‘七坪山’と呼ばれ、峰が七であって‘七棒山’または‘七星山’とも呼ばれたという。集賢山は山清郡生比良面と晋州市集賢面の警戒にわたっている山である。

山の形は馬蹄の形をしており、稜線の登山距離は回帰コースが10.8㎞である。馬蹄の形の中にヒョンドン村が位置しており、集賢山が村を両手で覆っている形をしている。頂上からは向かいの稜線のブ峰、チャングン峰、カマグィ峰を眺めることができ、日の出を迎えるにもいい場所である。ブ峰では晋州市と晋陽湖および山清郡の原地、熊石峰、智異山などがよく見え、周辺に高い山がないため新年の日の出と眺望にとてもいいところである。

胎封山
胎封山

胎封山は生草面にある山として高さは低いが、歴史深い古墳群がある。胎封山麓には外形大小の数十基の古墳が散在していて慶尚南道記念物第7号に指定されている。しかし、長年にわたって盗掘されて開墾され、原形を見ることができるものは何基に過ぎない。

ここから程遠からぬところに駕洛国最後の王である仇衡王の陵があることを関連付けて考えて見れば周辺に金と鉄が生産されていた所もあって大きな勢力を持つ部族が住んでいたことを推測することができる。

また、古墳群周辺には古い山城‘於外山城’があって別名‘尺洞山城’とも呼ぶ。ここの地形は広い野原が見渡される川辺の崖の上に築いた石城で、もう一方はソウルに通じる三南大路上のポントンジェである。昔の濫川院に近いポントンジェを越えると昔の沙斤道駅として沙斤察訪(官職)が配置された交通の要衝地である。7世紀頃、新羅と百済の国境地帯として頻繁な攻防戦があった場所でもある。

その下の江亭は澄んだ水とその景色が優れていて季節折々に訪れる人が後を絶たない。ここは智異山の北側から発源し馬川を経て流れてくる臨川の水と、徳裕山から南へと流れる濫渓と渭川が合流した㵢渓が出合うところである。夏には二筋の源流から流れてきた砂浜で日光浴を楽しんだり、涼しい川に身を浸して生気を取り戻したりする。愛する人とともに意味深いデートを楽んだり、蒸し暑い夏、家族揃って胎封山に立ち寄り涼しい水遊びも楽しみながら、山清の一幅の絵のような情景とおいしい空気の中へ飛び込んでみよう。

花長山/ 首陽山
花長山/ 首陽山

花長山と首陽山は休暇シーズンに德川江とともに夏の登山道として勧めたい所であり、何よりも綺麗な徳川江があってなおさら登ってみたくなるの山である。

花長山には花長庵の寺跡がある。花長庵は‘真珠誌’など昔の記録に残っていることからみてかなり古いお寺であることは確かだが、海抜600mの高い山の中腹の狭いところに位置している。

この近くには昔に 翰林寺、白雲岩、龍門岩などのお寺もあったそうだが、今はすべてなくなってしまった。しかし青銅器時代の遺物が発掘されて刀、槍など5点は現在慶州博物館に保存されている。チョムチョン村の西北方の約1㎞地点には岩が累累たる所があるが、俗称‘スェデガリ’という。 ここにある岩窟には金や銀、銅を採取した痕跡がある。チョムチョンは当時製鉄を行った場所で 窯跡と酸化鉄などを探すことができる。

黄梅山
黄梅山

慶尚南道山清郡車黄面法坪里に位置している黄梅山はハンムェ山の大きい(広い)山という意味から名づけられ、その後漢字に変わって黄梅山になった。太白山脈の最後の峻嶺である黄梅山は高麗時代護国禅寺の無学大師が入山修道した場所で、慶尚南道山清郡車黄面法坪里山1番地の黄梅棒を中心に東单へ伸びた奇岩絶壁が形成されていて小さな金剛山と呼ばれるほど美しい。

黄梅山の‘黄’は富、‘梅’は貴を意味し全体的には豊かさを象徴する。また、誰でも真心でお祈りすると願いのひとつだけは必ず叶えると言われて、昔から多くの有名人の足が後を絶たない。

黄梅山は季節ごとに派手に変身する。春にはツツジが山麓を桃色に染め、夏には大きい山麓から降り注ぐ渓谷の水で鏡湖江を成すほど豊かな姿を演出する。秋にはススキが蝋燭に火をつけたかのような白い花を咲かせ、冬には南側の山としては珍しく多くの雪が降り銀色の雪景色を誇る。

黄梅山は智異山と徳裕山、伽倻山で囲まれていながらも独立的にそびえ立ったその姿が名山の威厳を示している。

孝廉峰
孝廉峰

孝廉峰は、文字通り山の下に多くの孝子が住んでいたといわれ名付けられたのであり、山の下の人々がつつましく暮したという意味もある。また、黄梅山と釜岩産が演出するツツジと奇岩怪石の饗宴を最も近くで眺望できる唯一の山であり、丹渓里から見下ろすと大将が冑をかぶったような姿をしている。
黄梅山の山脈一つが西南へ流れて途中に止まっている峰が孝廉峰である。その勇ましい姿は見る角度によって形が変わる不思議さもある。遠くから見ると分からないが、636mの頂上には広々した岩があり、登山客は休みながら汗を冷やすことができる。
この山には天然の石窟が3つある。その名前はペトゥル窟、蝙蝠窟、ヌウン窟である。ペトゥル窟は岩が織機のような形をしており、その下は6人~7人が入れる広さである。蝙蝠窟は絶壁に穴を空けた窟である。ヌウン窟は韓国語の‘ヌッタ’から取った名前で、この‘ヌッタ’は‘横たわる’という意味である。その名前通り低めの窟ではあるが、50人~60人が入れるほどである。
孝廉峰の下のチョルス谷には龍沼がある。広々とした岩が絶壁をなしたところに深い沼が生じてこう名づけられたのであって、周辺の景色が美しくて夏になると避暑客が集まる。岩の上には文字を刻み碑石を立てるなど近隣の儒林が会合をした痕跡も見られる。昔、日照りの続く時期にはここで雨乞い祭りを行うことも数度あった。

望海峰: 遠く南海を眺めながら恋人を偲ぶ山

山頂から遠く海が眺められるとし‘望海峰’という。
望海峰は山勢は険しくなく海抜も高くないので、山勢を論じるには少し足りない山である。しかし悠々と流れる南江を一目で眺めることができ、天気が良ければ遠くの南海までも観望できる程度である。山の周辺に張り巡らされている色んな山々と劫外寺、木棉始培遺址、丹城面所在地、新等面所在地、大田-統営高速道路などの周辺景観も見どころである。

剣舞峰: 山是山、水是水

山形が剣舞を踊るように見えるということから剣舞峰という。
性澈僧侶の生家跡劫外寺の前に剣舞を踊るような剣舞棒が静かにそびえていて、南江は停止したような姿で悠々と流れている。剣舞棒の展望台へ登ると性澈僧侶の鋭い声が聞こえてくるようだ。“ 山是山、水是水”俗世のあらゆる心の執着と欲望、煩悩から離れない衆生、つまり私たちの心の目を開け解脱の境地に至るように伝えている話である。剣舞棒の展望台へ登ると夕陽が沈む西側のずうっと遠くの平穏な智異山が見えて、ずっと流れ続けている静かな水を見ることができる。ここに立ち上がってみると性澈僧侶の言葉通り、山は山のように、水は水のように見えるだろう。

白雲山:南冥先生が白雲渓谷に足を浸してそぞろ歩きしていた山
白雲山:南冥先生が白雲渓谷に足を浸してそぞろ歩きしていた山

智異山の山脈が熊石峰を経て、徶川江に向かって南へ走しる途中三筋に分かれているが、その間に麻根潭渓谷と白雲渓谷が流れている。白雲渓谷の清らかに冷えた水を含んだ山がこの白雲山である。白雲という名前は白雲渓谷の白い霧を塞いで白い雲がよく発生するので‘白雲’と呼ばれているようだ。白雲渓谷は長さだけでも4㎞を超え、有名・無名の滝や沼も数多くあって登山客や水遊びを楽しむ人たちに見所と涼しさを感じさせてくれる。南冥曹植先生もここを頻繁に訪れて自然を満喫しながら戯れた場所である。

厳惠山:鏡湖江、梁川江を交互に泳ぐ魚の山

厳惠山は鏡湖江と梁川江が合流するところにそびえ立っている山である。智異山からこの山を見下すと山の形が魚の尻尾と似ているということでオミ(魚尾)山と呼んでいたが、発音が変わって今はオムヒェ(厳惠)山と呼んでいる。周辺の川の水が厳惠山を囲んでいて川と山が調和をなしており、周辺の山や空からこの山を眺めるとその山の形がはっきり見える。魚の尻尾は水上にそびえていて、頭と胴体は南江に沈んでいる姿をしている。涼しい川の風が吹いてくる川辺の崖の上で西の空を眺めると、智異山天王峰をはじめ周辺の山沢を一目で眺められる。
智異山脈と熊石峰、タルトゥギ稜線、石岱山の山脈が3段に重なっており、まるで巨大な洗濯物を長く並べたような姿に見え、その洗濯物から流れた水が鏡湖江と南江の水流を成して穏やかに流れている。

智異山ドゥルレ道:垂直の文化を水平の文化に

智異山ドゥルレ道は、社団法人‘森道’が山林庁からの支援を受けて智異山周りの800里(約300㎞)を繋ぐ道を造成したもので、長距離の徒歩道です。智異山を包んでいる3つの道(全羅南道/全羅北道/慶尚南道)の中5つの市郡(求礼郡/南原市/河東郡/山清郡/咸陽郡)の100あまりある村の道(智異山旧道、峠道、林道、江辺道、畦道、村道など)を一つの道に連結しています。このうち山清と連携した智異山ドゥルレ道は、5コースから9コースの計5区間で60.2㎞に至り、山清地域の道は今西面芳谷の山清・咸陽事件追慕公園から矢川面カルティ峠まで続く56.7㎞の区間です。智異山ドゥルレ道を巡礼しながら地域の歴史と文化、村と出会うことができます。智異山ドゥルレ道は先生と生徒、友達と友達、そして子どもたちと地域住民との出会いの場になるのです。道を歩きながら自然と村と文化に出会い、最終的には自分自身とも出会い、その魂を癒す巡礼の道になって欲しいです。智異山ドゥルレ道には速度の文化を緩やかな省察の文化に、そして垂直の文化を水平の文化に築き上げていこうという願いが込められています。

東医宝鑑ドゥルレ道:薬養よりは食養、食養よりは行養

東医宝鑑ドゥルレ道は山清郡今西面特里の東医宝鑑村から出発して今西面新鵝里、花渓里、自惠里、水鉄里、向陽里、坪村里、特里を経て、東医宝鑑村へ戻るコースである。王山と筆峰山の周りを一周しながら、周辺の自然と歴史および文化を感じて体験しながら心身ともに癒せる道で、総距離は17.4㎞である。探訪は健康に焦点を合わせて行けばもっといい。許浚先生曰く、“薬養よりは食養、食養よりは行養”(韓方薬で体を養うとり、食べ物で養うのがよく、また食べ物よりは歩きで体を養う方がいいという言葉)とした。つまり、歩くことが健康を守る近道であることを東医宝鑑を借りて今日の私たちに伝えようとしたのである。許浚先生のその言葉を肝に銘じて登山コースを歩くと軽い足取りで出発することができ、探訪が終わると心身ともに癒しで満ちているのを感じられるはずだ。

處士南冥キル

客観的で公正な目でをもって現実の政治を批判するために選んだ處士(処士)の道

智異山眺望キル(清浄鳴キル、惺惺子キル)

このコースは智異山の眺望に良い場所が多い道である。南冥がいつも結びひもに着けていた二つの小さな鉄鈴があって、そのきれいな音が響き渡った道であろうという意味で‘清浄鳴キル’と名づけられた。そしてその鈴の名前が‘惺惺子’であり、その鈴の音を聞いていつも自分を覚醒させようとしたのである。人知が開けた人の人生を生きようとした南冥の実践的行動を振り返って見ながらこの道を歩いてみよう。

白龍門思惟キル(敬義剣キル)は白い雲と青い水が流れている白雲渓谷と龍が出入りしたような長くて深い谷など、龍門谷の探訪ができるコースである。敬義剣キルという名前は南冥が持っていた粧刀(敬義剣)のような姿をしていて付けられた名前である。その敬義剣には“内明者敬外断者義(心の中を明るく照らすのが敬であり、外にだして決断するのが義である)”という銘文が刻まれている。この道で私たちが求めなければならない敬と義は何だろうか、と考えながら自分を屈めて正しいことを追求する精神を取り戻させてくれる道を歩いてみよう。

断俗寺文武キル(断俗寺キル)
断俗寺文武キル(断俗寺キル)

文武キルと名付けた理由は南冥の後学たちが文章を身に着けることはもちろん、それを実践して、文禄の役の時、嶺南の多くの学者たちが義兵活動に添加して救国活動に飛び込んだからである。断俗寺は新羅時代の古寺であり、朝鮮丁酉再乱の際に焼失されるまでもその命脈が維持されていたが、今は幢竿支柱と東、西塔の二つの幢竿たけ残し、その華麗で雄大な姿は消えてしまった。過去の歴史を忘れてはいけないという教訓を得ることができる道である。

風水キル(處士キル)

このコースでは智異山を経て吹いてくる激しい風が感じられ、白雲渓谷から流れてくる冷たくて白い水流を限りなく体感できる路線である。白雲渓谷には南冥先生が杖を隣に置いて渓谷に足を浸して詩を詠んだ場所だという“南冥先生杖屨之所”が残っている。處士(処士)として在野に埋もれ自然とともに余裕溢れる暮らしを求めたこの道で、私たちも人生の素朴な喜びを探してみよう。