主要観光地
智異山と東医宝鑑の故郷である山清は、当代最高の名医である許浚先生、朝鮮後期に中国まで名声をとどろかせた楚三、楚客兄弟など、名医として名を上げた伝統韓方の本場だ。
また、智異山の裾で自生する薬草は、効能がすばらしく、その優秀性は広く知れ渡っている。
このような伝統を受け継ぎ、山清郡の今西面特里一帯に山清韓方医学博物館を建て、毎年、韓方薬草祭りを開き、東医宝鑑村を造成するなど山清を韓方薬草、韓方医学の聖地にするべく努力している。
東医宝鑑村には宇宙森羅万象を構成する5つの要素(木、火、土、鉱物、水)をテーマにした、韓方テーマ公園がある。テーマ公園は親環境を前提に、樹林帯と渓谷があり、散歩道も整っていて観光と休息を合わせて楽しめるようになっている。
全国初の韓方医学専門博物館を見学して、山清の韓方テーマ公園の方へ足を向けると、熊と虎のシンボル像と泉谷が最初に目に入る。照明や垣根などの装飾が良く調和していて、見物客らの目を楽しませてくれる。シンボル像などのある道の右側には草亭という池があり、池の中央には水を汲む少女像がある。泉谷のすぐ横には、名医村と名づけられた散歩道があるが、指圧歩道になっていて靴を脱いで指圧歩道を歩いても良さそうだ。韓方谷の代表的なシンボル像である熊の像は展望台の役目もしてくれる。その他、十長生公園、12支神の噴水広場、人体の内部を表現した造形物などが鑑賞でき、遊び広場もあって、子供たちも退屈せずに楽しめそうだ。家族旅行や夏の休暇を過ごすには丁度良い所だ。
韓国の代表的な比丘尼の参禅道場である大原寺は548年に緣起祖師によって創建され山地伽藍の形を持った寺院で、階段を上がって天王門に至ることがまるで鶴が翼を広げて多くの人々を仙界に案内しているかのような神秘な雰囲気を醸し出している。金剛松という松の森と美しい渓谷に沿っており、秀麗な姿を誇る多層石塔がある。
南沙芸談村は、静かな塀の向うから韓国伝統家屋ならではの美しさを伺うことができ、表面的には古塀村という意味を込めており、内面的には昔のソンビ(士人)たちの意気と礼儀を見習おうという意味をこもっている。
智異山の入り口に居着いた南沙芸談村は安東河回村とともに、慶尚道の代表的な伝統韓屋村である。慶尚南道といえば、山清南沙村というほど昔からその名声が広まったこの村は両班(ヤンバン)の村としても有名であり、伝統韓屋村でも有名だ。伝統家屋が日々消えてゆく最近、平凡な生活の中で伝統家屋を保存しており、わざわざ訪れて来る人たちを暖かく迎えてくれる智異山の入り口のこの小村が、ひときわ情感があり古風を感じられる理由は古い塀の向こうから伺うことができる私たちの先祖の情緒と暮らしの姿をいまだに残されているからではないだろうか。
韓屋は数千年の韓国の歴史の中で、韓民族のアイデンティティに根を置いて、その時代の暮らしの様式を反映しながら変化してきた。一民族の文化が伝統を基にして現在を乗り越えて未来に繋がるものであれば、その変化はいつも現在進行形でなければならない。農村伝統テーマ村である单沙芸談村は、変化し続ける現代、昔のものを大切にし守っていこうという学びの休息の場として位置づけられるはずである。
韓国最初に綿花を栽培したところであり、恭愍王12年(1363)、文益漸は中国の元へ使者として訪れ、帰国する道に綿の種を筆筒に入れて持って来て義父の鄭天益とともに試験栽培をし、全国に綿を広く普及するようにした。展示館には綿花の歴史と織機、糸車、機織りの過程などを見ることができ、木棉始培遺址の周辺には綿花の精神を再確認するため、毎年綿花を栽培している。
“時間と空間を超越した寺”という意味の劫外寺には附属建物が大雄殿と禅房、楼閣、寮舍寨などがあり、大雄殿には釈迦とキム・ソソク画伯が描いた性澈大宗師の眞影が奉安されている。性徹僧侶の体臭を感じることができる劫外寺は仏教聖地として、全国の仏教信者や観光客に仏教の意味を振り返って見る場所となっている。
“山是山、水是水”という法語を残してこの時代の最後の禅僧として崇められる性澈僧侶の生家址に生家を復元して劫外寺を創建した。性澈僧侶の遺品が展示されている泡影堂には性澈僧侶が普段身につけていたトゥルマギ(外套のような韓国特有の着物)とゴム靴をはじめ、普段の生活姿をうかがうことができる所蔵図書とメモ紙、遺筆資料などが展示されている。
韓国唯一の石で築いた王陵である仇衡王陵。この陵は、加耶(カヤ)10代王である仇衡王の墓と伝えられている石墓である。仇衡王は仇亥または譲王と言われるが、金庾信の曽祖父である。521年加耶の王になって532年新羅の法興王に領土を渡すまでの11年間王を務めた。
この墓をめぐって石塔だという説と王陵だという二つの説があった。これを塔だと見る理由はこれと似た物が安東と義城地方に分布していることを根拠にする。王陵だという根拠は東国輿地勝覧、山陰県山川條に県の40里の山中に石で築いた九龍があるが、4面にすべて層級があり、世俗には王陵と伝えるという記録がその根拠である。
この墓に王命をつけた記録では、朝鮮時代の文人である洪儀泳の「王山尋陵記」で、初めて見える墓の西に王山寺というお寺があってこの寺に伝えてくる‘王山寺記'に仇衡王陵と記録されていたということである。この墓は一般の墓とは違って、傾斜した丘の中間に全体の高さ7.15mの基壇式の石垣になっている。前から見ると7段であり、裏は急な傾斜をそのまま利用して作ったため、平地のピラミッド式の層段を作ったのとは違いがある。墓の頂上は楕円型をしている。石墓の中央には'駕洛国譲王陵'と書かれた石碑があり、その前に石物があるがこれは最近立てられた物である。
朝鮮正祖17年には王山寺から伝えられてきた木箱の中で発見された仇衡王と王妃の肖像画、服、弓などを保存するため'德譲殿'という殿閣を建てて、春と秋に祭祀を行って来た。韓国唯一の石墓ということだけでも一度尋ねてみていい見所として積極的にお勧めする。
大聖山頂の絶壁に位置する浄趣庵は義湘大師によって創建されたと伝わっており、浄趣庵の幀画が有名なお寺である。
奇岩絶壁にぶら下がっているような浄趣庵は、旧丹城県の北方40里に位置した大聖山の奇岩絶壁の間に位置した寺で、その縁起の良さそうな気がまさに金剛に続くといわれ昔から小金剛と称された。
新羅神文王6年、東海から阿弥陀仏が湧きあがって二筋の曙を照らしたが、一つの筋は金剛山を照らし、また一つの筋は大聖山を照らしたという。 この時、義湘大師が二筋の曙光を追って金剛山には圓通庵を立て、大聖山には浄趣寺を創建したという。
高麗恭愍王の時に修造して朝鮮孝宗の時に焼失されたが、鳳城致憲禅師が再建し観音像を造成した。
1987年、道永堂は円通宝殿工事を完工し、大雄殿を改称して釈迦牟尼本尊仏と観世音菩薩像、大勢至菩薩像を奉安した。1995年には應眞殿に十六羅漢像と幀画を奉安して、1996年には山神閣を修復し山神幀画を奉安した。この幀画は慶尚单道文化負資料第243号に指定されている。
岩の端に立って上がってきた道を振り返ってみるととても高い所から下界を見下ろす涼しさとともに、寂寞と静かさの中で世俗を脱したかのような感じがする。
朝鮮中期の有名な儒学者である南冥・曺植遺の遺跡である。曺植先生には多くの官職が下されていたがすべて断り、学問の研究と人材養成に尽力した。この遺跡は二ヵ所に分けられるが、絲里には山天齋、別廟、神道碑、墓碑があり、原理には徳川書院と洗心亭がある。
山天齋は先生が学問を磨き研究していたところであり、明宗16年(1561)に立てられ、純祖18年(1818)に直された。規模は前面2間、側面2間である。徳川書院は先祖9年(1576)に建てられたが、現在の前面5間、側面2間の建物は1926年に直して作ったものである。
洗心亭は先祖15年(1582)に初めて建てられた。曺植遺跡とは朝鮮中期の偉大な儒賢であり、優れた實踐道学者であった南冥先生が晩年に講学していた山天齋をはじめ、死後彼を奉った徳川書院などを一括に指定した遺跡地のことである。
南冥・曺植(燕山君7年1501~宣祖5年、字は楗仲、別号は山海、本貫は昌寧) 南冥・曺植は特別な才質と節制で早くから学徳を備えて大成したが、仕宦(官職)には進まず、一生をソンビ(士人)と處士(処士)としての人生を堅く一貫した。
38歳の時、献陵参奉をはじめに何度も官職に除授され、王様から対面の要請も受けられたが、毎回上訴(封事)として意見開陳しただけで、ただ66歳(明宗21年、1566)になった年の10月初に上京し王様をしばらくお目にかかってはすぐに帰郷した。死後、光海君7年(1615)に領議政に追贈され諡号を文貞とした。